佐谷画廊の思い出
佐谷画廊に初めて行ったのは大学2年の夏、1985年7月の第5回「オマージュ瀧口修造」です。その前年、大岡信『ミクロコスモス滝口修造』(みすず書房)が刊行され、口絵で見た瀧口のデカルコマニーに心ひかれました。たぶん下宿で読んだ朝日新聞の展評で「オマージュ瀧口修造」を知り、見に行ったのだと思います。画廊という場所に足を踏み入れた最初でした。あのころは今と違って(などと言える歳に私もなってきました)美術史専攻でもない学生が画廊を回るのは勇気の要ることでした。佐谷画廊でも、そっと作品を眺め、デカルコマニーの絵葉書を買っただけで、佐谷さんとお話しすることはありませんでした。
そのころ私は「三田詩人」という詩誌の同人で、瀧口の「妖精の距離」にもひかれていました。しかし20年を経てみると、むしろデカルコマニーをはじめとする作品を佐谷画廊で間近に見た記憶の方が、ずっと色濃く曳揺しているように思います。 2度目に訪れたのは銀座における最後の展覧会でした。当時は社会部の記者で美術と縁遠い世界にいましたが、新聞で閉廊を知り、十数年前の記憶をなぞりに出かけました。その時も佐谷さんとはお話しせずに終わりましたが、その翌年の異動で文化部の美術担当になり、今度はSHUGOARTSなどでお会いしてご挨拶するようになりました。
偶然ですが、最後にお会いしたのも瀧口修造の縁でした。2005年の「瀧口修造コレクション:夢の漂流物」展の内覧会で、快活な笑顔を見せて関係者を紹介して下さった姿が目に浮かびます。その世田谷美術館の内覧会では「三田詩人」の同人だった慶應の准教授の笠井裕之さんたちとも再会し、20年前の佐谷画廊と現在をつなぐ奇縁に感慨を覚えたものでした。
しかし残念なのは「今度ゆっくりお話をうかがわせて下さい」とお願いしながら、いつも短い立ち話で、他の方々が語っておられるほどの謦咳に接する機会を逃してしまったことです。著書を数冊拝読し、瀧口や三好達治のこと、美術の現状に対する厳しい指摘をお聞きしたかったのですが、私よりもお付き合いのある職場の先輩が3人もいたので、遠慮していました。 私も20年以上前に佐谷画廊を訪れた体験があったのですから、そこまで臆する必要もなかったのです。お話をうかがいに行き、大切な言葉を文字にしておくべきでした。
高野清見
そのころ私は「三田詩人」という詩誌の同人で、瀧口の「妖精の距離」にもひかれていました。しかし20年を経てみると、むしろデカルコマニーをはじめとする作品を佐谷画廊で間近に見た記憶の方が、ずっと色濃く曳揺しているように思います。 2度目に訪れたのは銀座における最後の展覧会でした。当時は社会部の記者で美術と縁遠い世界にいましたが、新聞で閉廊を知り、十数年前の記憶をなぞりに出かけました。その時も佐谷さんとはお話しせずに終わりましたが、その翌年の異動で文化部の美術担当になり、今度はSHUGOARTSなどでお会いしてご挨拶するようになりました。
偶然ですが、最後にお会いしたのも瀧口修造の縁でした。2005年の「瀧口修造コレクション:夢の漂流物」展の内覧会で、快活な笑顔を見せて関係者を紹介して下さった姿が目に浮かびます。その世田谷美術館の内覧会では「三田詩人」の同人だった慶應の准教授の笠井裕之さんたちとも再会し、20年前の佐谷画廊と現在をつなぐ奇縁に感慨を覚えたものでした。
しかし残念なのは「今度ゆっくりお話をうかがわせて下さい」とお願いしながら、いつも短い立ち話で、他の方々が語っておられるほどの謦咳に接する機会を逃してしまったことです。著書を数冊拝読し、瀧口や三好達治のこと、美術の現状に対する厳しい指摘をお聞きしたかったのですが、私よりもお付き合いのある職場の先輩が3人もいたので、遠慮していました。 私も20年以上前に佐谷画廊を訪れた体験があったのですから、そこまで臆する必要もなかったのです。お話をうかがいに行き、大切な言葉を文字にしておくべきでした。
高野清見

0 Comments:
Post a Comment
<< Home