佐谷さんと初めてお会いした頃
佐谷さんと初めてお目にかかったのは、慶應でのアート・マネージメント講座がスタートしてすぐの頃、恐らく1991年のことだったのではないか・・・と昨日まで思っていたのですが、よくよく考えてみると、それよりも以前のことだったかも知れません。近藤幸夫先生に銀座の佐谷画廊へ連れて行って頂いて、近所の和風の小料理屋にご一緒させて頂き、いろいろお話を伺ったのですが、記憶を辿ると、近藤さんは、まだ、慶應の先生になられる以前で、国立近代美術館にお勤めだったような気がします。
1989年の秋、私が一冊目の本を出すのと同時にロータリー財団の奨学金でイタリアに渡り、その後ニューヨークで、NYUのアート・マネージメント修士課程に留学中だったお嬢さんの真知さんとお会いした時、「私と同世代の方がこんな本を出版していて、しかも父が知り合いだなんて」と話しておられた記憶があるので、恐らく、イタリアに行く前にお父様とはお目にかかっていたのでしょう。朝日新聞社から出版された『美術館は眠らない』は、ニューヨークとサンフランシスコの紀伊国屋書店でも売られていたそうで、真知さんだけでなく、北米に留学中だったり、駐在していた同級生からも「本屋で見かけた」と言われたものでした。
でも、もしかすると、銀座で一緒にお食事をしたのは、『美術館は眠らない』を出版した直後、フィレンツェから一時帰国した十日間のことだったかも知れません。佐谷さんは、私の本を読んで下さって、「えらい、えらい。こういう議論を日本でも大いにやらないと」と励まして下さり、それで「お祝いに」ということでお食事をご馳走して頂いたような気がします。その後も、『美術館の誕生』を出版した際にはご自宅にお招き頂いて、「あなたにはこれから頑張ってもらわないと」と仰って、お寿司をご馳走して頂いたこともありました。イタリアの前か後かが定かではありませんが、佐谷さんに初めてお会いしたのは、私が三十歳になる以前のことだったと思います。イタリアから帰国したのが1990年の秋で、1991年の2月に企業メセナ協議会が発足、4月には慶應のアートマネージメント講座がスタートし、私は訳もわからずに講師としてお手伝いをすることになりました。当初、新しく設置された企業の社会貢献課の担当者の社会人の方も多かったので、受講生の中には同世代の方が多く、それどころか年上の方も何人かおられました。1991年は、日経新聞で後に『大富豪たちの美術館』として出版することになる連載もスタートした年でした。
おそらく真知さんとお会いしたのも1991年で、その頃、私はよく『AERA』に記事を書いていたので、メトロポリタン美術館とパブリック・ライブラリー、もしくは、サイトウ記念オーケストラの全米デビュー取材でNYに滞在していた時だったのではないかと思います。どこかSoHOのカフェで、マフィンかスコーンを食べながらお話した記憶があります。真知さんは、その後、パリへも留学されました。私のほうは、しばらく英国と行ったり、来たりになりました。
初めての出会い以来、佐谷のお父様には本当にお世話になりました。もちろん、慶應の授業でも何度もご一緒させて頂きましたが、大阪や静岡の前任校、非常勤先の立教の大学院などにも講義にいらして頂きました。こうした機会を通じて多くの学生たちと交流して頂き、そのうちのかなりの数が、亡くなられる直前まで親しくさせて頂いておりました。佐谷さんは、日本の美術、美術館のあり方について、真剣に憂えておられましたが、同時に決して希望を捨てることなく、若い世代と話をされる時は、本当に嬉しそうに、目を輝かせておられたことが印象に残っています。なかなかお茶目なところもおありで、ご自宅の、ある意味最大の見せ場ともいうべきトイレに行って、マン・レイの作品を目にした学生たちが目を丸くして戻ってくるのを、「してやったり」といった様子で、満面に笑顔を浮かべて眺めておられたことも忘れられません。もと教え子たちで、佐谷家のトイレについて語らない者はいないでしょう。
先日の「お別れの会」で、私にくっついて佐谷家を訪問させて頂いていた学生たちが、みな30歳を越え、すでに私が授業を受け持つようになった年齢を越えてしまっていることに気づいて、感慨深い思いをしました。改めて佐谷さんには、なんと有難い出会いをさせて頂いたものかと感じ入ったのですが、同時に、もっとお手伝いすべきことがあったのではないか、お手伝いできる方法があったのではないかということも考えました。特にこの2〜3年、毎日の忙しさに追われて、佐谷さんとゆっくりお話する時間がありませんでしたので、もっと色々なことをお話しておけば良かったと、そのことが悔やまれます。
日本の美術界を取り巻く環境が予断を許せない状況であることに変わりはありませんが、佐谷さんが心を尽くして語りかけた多くの若者たち、特に、ご自宅を訪問することを許された幸運な者たちは「ホンモノ」を観ることの意味、思索することの重要性を決して忘れないでしょう。私たちは、ご自宅での佐谷さんの存在感と共に、いつも現れる時は大人数だった我々を、無条件に温かく受け入れ下さった奥様のご厚情にも感謝致します。
このブログのサイド・バーのリンクからは、佐谷さんが銀座の画廊からご自宅に仕事場を移されてからの発言をご覧頂くことができます。2000年頃は、まだ一般家庭のインターネットはダイアル・アップが主流で、ブログも存在していなかったので、森信也君(大阪・大日本印刷勤務)がサイトの面倒を見てくれていました。もし、今だったら・・・きっとブログを使って、動画も使って、いろんなことを試してみたかったんじゃないでしょうか。そんなことを考えながら、我々も佐谷さんの遺志を受け継いで参りたいと考えています。
近・現代の美術が何よりお好きだった佐谷さんは、きっと今頃、バーゼルのバイエラー美術館や、ベルンのクレー美術館をのんびり旅しておられような気がします。バイエラーのコレクションにピカソを見る度、「やっぱり、ピカソは戦前の初期の頃の作品じゃなくちゃ」と仰る、佐谷さんの声が耳元で聞こえることでしょう。私たちは、そういうお話をされる時の、嬉しそうな佐谷さんの笑顔が大好きでした。
1989年の秋、私が一冊目の本を出すのと同時にロータリー財団の奨学金でイタリアに渡り、その後ニューヨークで、NYUのアート・マネージメント修士課程に留学中だったお嬢さんの真知さんとお会いした時、「私と同世代の方がこんな本を出版していて、しかも父が知り合いだなんて」と話しておられた記憶があるので、恐らく、イタリアに行く前にお父様とはお目にかかっていたのでしょう。朝日新聞社から出版された『美術館は眠らない』は、ニューヨークとサンフランシスコの紀伊国屋書店でも売られていたそうで、真知さんだけでなく、北米に留学中だったり、駐在していた同級生からも「本屋で見かけた」と言われたものでした。
でも、もしかすると、銀座で一緒にお食事をしたのは、『美術館は眠らない』を出版した直後、フィレンツェから一時帰国した十日間のことだったかも知れません。佐谷さんは、私の本を読んで下さって、「えらい、えらい。こういう議論を日本でも大いにやらないと」と励まして下さり、それで「お祝いに」ということでお食事をご馳走して頂いたような気がします。その後も、『美術館の誕生』を出版した際にはご自宅にお招き頂いて、「あなたにはこれから頑張ってもらわないと」と仰って、お寿司をご馳走して頂いたこともありました。イタリアの前か後かが定かではありませんが、佐谷さんに初めてお会いしたのは、私が三十歳になる以前のことだったと思います。イタリアから帰国したのが1990年の秋で、1991年の2月に企業メセナ協議会が発足、4月には慶應のアートマネージメント講座がスタートし、私は訳もわからずに講師としてお手伝いをすることになりました。当初、新しく設置された企業の社会貢献課の担当者の社会人の方も多かったので、受講生の中には同世代の方が多く、それどころか年上の方も何人かおられました。1991年は、日経新聞で後に『大富豪たちの美術館』として出版することになる連載もスタートした年でした。
おそらく真知さんとお会いしたのも1991年で、その頃、私はよく『AERA』に記事を書いていたので、メトロポリタン美術館とパブリック・ライブラリー、もしくは、サイトウ記念オーケストラの全米デビュー取材でNYに滞在していた時だったのではないかと思います。どこかSoHOのカフェで、マフィンかスコーンを食べながらお話した記憶があります。真知さんは、その後、パリへも留学されました。私のほうは、しばらく英国と行ったり、来たりになりました。
初めての出会い以来、佐谷のお父様には本当にお世話になりました。もちろん、慶應の授業でも何度もご一緒させて頂きましたが、大阪や静岡の前任校、非常勤先の立教の大学院などにも講義にいらして頂きました。こうした機会を通じて多くの学生たちと交流して頂き、そのうちのかなりの数が、亡くなられる直前まで親しくさせて頂いておりました。佐谷さんは、日本の美術、美術館のあり方について、真剣に憂えておられましたが、同時に決して希望を捨てることなく、若い世代と話をされる時は、本当に嬉しそうに、目を輝かせておられたことが印象に残っています。なかなかお茶目なところもおありで、ご自宅の、ある意味最大の見せ場ともいうべきトイレに行って、マン・レイの作品を目にした学生たちが目を丸くして戻ってくるのを、「してやったり」といった様子で、満面に笑顔を浮かべて眺めておられたことも忘れられません。もと教え子たちで、佐谷家のトイレについて語らない者はいないでしょう。
先日の「お別れの会」で、私にくっついて佐谷家を訪問させて頂いていた学生たちが、みな30歳を越え、すでに私が授業を受け持つようになった年齢を越えてしまっていることに気づいて、感慨深い思いをしました。改めて佐谷さんには、なんと有難い出会いをさせて頂いたものかと感じ入ったのですが、同時に、もっとお手伝いすべきことがあったのではないか、お手伝いできる方法があったのではないかということも考えました。特にこの2〜3年、毎日の忙しさに追われて、佐谷さんとゆっくりお話する時間がありませんでしたので、もっと色々なことをお話しておけば良かったと、そのことが悔やまれます。
日本の美術界を取り巻く環境が予断を許せない状況であることに変わりはありませんが、佐谷さんが心を尽くして語りかけた多くの若者たち、特に、ご自宅を訪問することを許された幸運な者たちは「ホンモノ」を観ることの意味、思索することの重要性を決して忘れないでしょう。私たちは、ご自宅での佐谷さんの存在感と共に、いつも現れる時は大人数だった我々を、無条件に温かく受け入れ下さった奥様のご厚情にも感謝致します。
このブログのサイド・バーのリンクからは、佐谷さんが銀座の画廊からご自宅に仕事場を移されてからの発言をご覧頂くことができます。2000年頃は、まだ一般家庭のインターネットはダイアル・アップが主流で、ブログも存在していなかったので、森信也君(大阪・大日本印刷勤務)がサイトの面倒を見てくれていました。もし、今だったら・・・きっとブログを使って、動画も使って、いろんなことを試してみたかったんじゃないでしょうか。そんなことを考えながら、我々も佐谷さんの遺志を受け継いで参りたいと考えています。
近・現代の美術が何よりお好きだった佐谷さんは、きっと今頃、バーゼルのバイエラー美術館や、ベルンのクレー美術館をのんびり旅しておられような気がします。バイエラーのコレクションにピカソを見る度、「やっぱり、ピカソは戦前の初期の頃の作品じゃなくちゃ」と仰る、佐谷さんの声が耳元で聞こえることでしょう。私たちは、そういうお話をされる時の、嬉しそうな佐谷さんの笑顔が大好きでした。
岩渕潤子

1 Comments:
佐谷和彦様へつつしんで哀悼の意を捧げます。
先日のお別れ会で、慶應アートマネージメントで佐谷さんとのご縁をお作りいただいたお一人である岩淵先生とお会し、生前の笑顔の遺影の前で、佐谷さんの功績、お人柄など多くを語る事ができました。
私が現代美術を見始めた14年ほど前、レクチャラーをされた佐谷さんのお話を伺いたく、足繁く佐谷画廊を訪ねました。佐谷さんは、そんな何も知らない私を笑顔で迎え入れてくださり、カバコフ、ヤンファーブル、クリスト、瀧口修造等について熱心に、また笑顔で語ってくださいました。薦められるままに作品を見、本・カタログを読み、「美術をみる核」を作っていただきました。今振り返ると、作品そのものだけではなく、美術に携わる姿勢をも教えていただいたと思っています。
その後美術館で仕事をし、現在も美術の仕事を続けている私にとり、「美術をみる核」を持てた事はとても幸せなことであり、かけがえのない財産になっています。今後、佐谷さんの遺志を汲み、多くの人々にアートの楽しさを伝えて行きたいと思います。
佐谷さん、心より感謝申し上げます。どうぞ安らかにお眠りください。
アートガーデンズ 片山有佳子
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Anonymous, at August 4, 2008 at 2:25 AM
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